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パンくずメニュートップページ >北方領土 >ふるさとへの想い(語り部 髙岡唯一) >ふるさとへの想い

  北方領土の歯舞群島多楽島で昭和10年に生まれ幼少期を島で過ごしました。

 現在85歳となり、当時を回想するときは、いつも「故郷」という唱歌「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢はいまも今もめぐりて 忘れがたき故郷 思いいずる 故郷」この曲を歌います。そうすると10歳の頃の少年になれるのです。

 家業は、昆布の採集生産を営んでおり、来る日も来る日も雨の日も風の日も親の手伝いをさせられました。子どもも昆布干しや取り込みと大人と同じ仕事をさせられ、また、子どもの役割として浜辺にあがった雑昆布を干して、製品にならない昆布を畝にして焼く時の火の番をさせられました。今でも煙のにおいが鼻に感じるほどです。焼けて灰になったものを袋(カマス)に入れ、馬車で精製工場に持ち込むとその灰が分類されヨード(薬品)と火薬の原料になったのです。これは、戦時中のお國の為の仕事をしていた訳です。

 戦時中は、親の仕事を手伝う生活が当たり前となっていました。現代のように生活は多様化、生活物資が豊富な時代ではないので、隣近所の交流が強く、助け合いの日常が大人も子どもも身についていた時代です。

1945年(昭和20年)7月14日当時の根室町方面の空に黒煙がもくもくと上がっているが島から見えました。両親を含め島の大人達は、根室町がアメリカ軍の空爆を受けていると感知したそうです。当時役場は、歯舞村(現在の納沙布岬の地)にありましたが、役場からは何の連絡も指示もない中、島民は不安な日々を過ごし、1ヶ月が経った8月15日に第2次世界大戦の無条件降伏のラジオ放送(天皇陛下の玉音放送)があり、島民の落胆は大きく、今後の生活に対してさらなる不安が襲いました。8月20日頃、外国軍が島に来るそうだとの噂が島中に広がり、島民の不安は一層強くなりました。終戦後に知り得たことですが、8月末にソ連軍が択捉島から次々と島々に上陸を始めたとの連絡があり、9月5日についにソ連軍が我が多楽島にも上陸し、我が家にもやって来ました。身体は大きく、鉄砲を持ち怖い顔をしたソ連兵が大声を発し、土足で家中を歩きまわり・・・その行動は当時10歳だった私の脳裏に焼き付きました。その時の威嚇行動の恐怖は、85年の人生の中で一番の屈辱となりました。その後、一家全員で自家用動力船にて島から逃げ出し(脱出)、根室半島の地域に上陸。幸いにもその地域に定住していた根室町民の手厚い行為を受けて、数か月の戦後生活を過ごしました。

 私が北方領土問題について関心を持ち、深く関わるようになったのは、根室から羅臼に転居後、国後島を毎日のように観て生活するようになった年、1956年の日ソ共同宣言が調印され、10歳だった私も成人を迎えた頃のことです。当時のことを知る引揚者の1人であることから、日本と連合国との条約・協定・宣言などを勉強し、村田吾一翁、谷内田進大先輩から領土問題や返還運動の話を聞き、知識を深めていきました。

 「ソ連が第2次世界大戦に参戦した1945年当時、日本とソ連との間には日ソ中立条約が結ばれていましたが、8月8日に同条約を一方的に無視して参戦し、8月15日、日本が連合軍のポツダム宣言を受諾し、降伏終戦したにも関わらず、ソ連は戦勝国との主張で北方四島に上陸占領し、強制撤去手段で元島民を追い出しました。」

 上記のように当時の話を実体験も交えながら語りかけることで、多くの方に事実を知ってもらい、「いかにソ連が不法行為で北方四島を占領したか」「北方四島は歴史文献上絶対日本の領土であり、ソ連の不条理な主張に屈してはならない」そんな思いから語り部を始めました。

 

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このページの更新日:2023年6月6日

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